昭和五七年一月十日朝の御理解
x御理解第三十四節 「此処へ参っても神の言う通りにする者は少ない。皆帰ってから時 分の好い様にするのでおかげはなし。神の言う事は道に落としてしまい、わが勝手に して、神を恨む様なものがある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。有難く受けて 帰れば、土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある。心の内を改める事が第一なり。 神に一心とは迷いのない事ぞ。」
天地の親神様の久しき願いである。人間氏子が幸福になれれる。お徳が受けられる。しかも人間が人間らしゅう生きながら、嬉しゅう楽しゅう、しかも愉快にまでならせて頂けれる心の状態で、人間の幸福になれれる道を教祖金光大神に教えられたけれども、その教えを受けて、まあいうなら百年、果たして今申します様に、天地の親神様の久しき願いであったその願いが、どの様な形で成就してきたであろうか、と思うてみますと、神の言うた事は途中で落としてしまい、自分のいい様にするからおかげはないと。例えば今日の御教えの中にあります様に、肝心要の所を落として来とる様な感じがするんですよね。
ところが、その肝心要の所があまりにも、いうならば合楽で言われる、「簡単です。明瞭です。おかげが確かです。」といった様なふうに申します。その、事実そうなんですけども、あまりにも簡単で明瞭で、もう本当にそうなんだけれども、今まで宗教とは、とても普通の者ではでけん。私どんな、とても信心はでけん。といった、いわゆる特別の人がする様なと言うてその、宗教がないわけではないですよね。まあ、皆どこにでも神様、仏様を祭ってないという所はないですけれども、その神様とか仏様とか言う、それが非常に人間の幸福との、その間隔ていうものがあまりにも、こう離れすぎて、なら教祖が言われる様に、「神も助かり氏子も立ち行く」という様な、あいよかけよで立ち行こうじゃないかと。それを合楽では、神と氏子が合楽しながら、喜び合いながら、楽しみ合いながら、助かって行こうじゃないか、又、そういう道があるんだよ。と、ま、合楽では説くわけですよね。
それが、あまりにも簡単です、それこそ明瞭ですと言うもんですから、「ほんなこっちゃ、あるじゃろか」と言った様なものがあるのじゃないでしょうか。いや、合楽に御縁を頂いておる方達でも「親先生は、ああ言われるけどもそんなに簡単なもんじゃない」と言うふうに思うて、いうならば日々の御理解を本当に実験実証しよう、という気になっておらない人が多いのじゃないだろうかね。例えばほんなら、私が声を大にして世界中に和賀心時代を、とこういう、その和賀心時代。もう兎に角、人間が和賀心になろう、和賀心にならせて頂けば、確かに人間は幸福になれるだろう、と思っただけでも、私は人間の幸福に貢献出来る宗教だと思うのですけれどもね、それを思わない。いや、そげん和賀心だけで、人間が幸福になれるとは思わないね。
教祖の神様はね。それこそ簡単に天地書附に表しておられるのです。「生神金光大神天地金乃神、一心に願え、おかげは和賀心にあり」あまりにも簡単に表現しておられますから、それを本当に本気で和賀心にならせて頂く。いや、金光様の信心すりゃ一応思うんですけれどもね。その和賀心になる手立てがね、その、なかなか難しかったわけ。合楽で説かれるところ、もう兎に角、まあ合楽で言われる、まあ天の心、地の心と。
前日の、あの福引きの時にどなたかが頂いておられた「天の心とは身を削り、地の心とは心を削る事」と言った様な、私は確かそういう事を昔頂いとったんですけども、それを改めて確かにそうだなあ、と思うんですね。
天の心というのは、もう限りなく美しゅうなって行く事だと言うが、美しゅうなるという事は、結局、心を削らなきゃ美しゅうなれんね、人間が生まれて来た時に、もう既に生神の性というものは頂いているんだけれどの、それが我情であり我欲であるというそのものに覆われてしまって、人間の本当の真価というものは発揮する事が出来んなり、そして段々長ずるに従って我情我欲を言わなければ、この世は生きられないと思い込んでしまってるんですよね。で、この辺の所から、そういう思い込みを通してでも、やはり難しいと言ゃあ難しい。けども、ほんなら合楽で説かれるところの信心というものは、その-、まあ簡単に言われて簡単ですと言われるところを。
例えば昨日も、あの、正教先生に簡単なお礼のはがきが来ておりましたが、それをここで先生が読んでくれました中に、合楽で親先生が説かれる、兎に角千年万年かかっても、天地の親神様の働きというものは、いわゆる、人間世界で、いわば人間氏子そのものを丸うせずにはおかん、という働きだけしかないと言われる、もうその一言に感動しきっておられる模様が、はがきに書いてあるです。
どうですか、皆さん、ここをこうやって感動を覚える方があるでしょうか。一切神愛といった様なふうな表現で、これは説かれるんですけどもね。それこそ天地の親神様の久しき願いが、教祖金光大神によって表われ様としておる。そして金光大神の世界というか、教祖金光大神出現から百年、その百年の間に合楽が生まれた、そして合楽で、いわゆる金光大神の御教えというものが、人間がもう絶対に幸福になれる、お徳が受けられるね。しかも人間が人間らしゅう今まで過去の、いうなら宗教というものから、そのイメ-ジをアップするほどしの教えが説かれてあるわけ、だから結局、過去の宗教の観念というものがイメ-ジアップ出来なければね、合楽の信心はわからんです。
ほんなこっじゃろかてんなんてんて、言葉では表現されませんでしょうけれども、まあ漠然としているわけですね。
昨日、これは、どっかあちらの、どっか兵庫県かの教会のか、あの私宛てじゃないけれども、おかげの泉の編集部宛てに来ておる。もうそれこそおかげの泉で、それこそ金光教は、こいでなからなければいけんという事をわからして貰ったという、本部の金光教はこいでなからなければというその感動をね、編集部宛てに書いて、後のおかげの泉を送って頂きたいという、お金を同封して言うて来ておりましたがね。
どこにこういう感動を覚え、金光教もこいでなからねばと、どこに感動を思えたかは、わかりませんけどね。私はその、いうならば感動というか、それが本当なものになる時には、過去の宗教的な、又は、宗教のイメ-ジというものがアップされて、そして合楽の信心を頂かなければスキッとしたものにならない、又は真の信心とは真の信心とは、本当の信心とは、というふうに求道の心がなからなければ、名古屋の人の事なんかはそうですね。全国武者修行して回ってからでも、あらゆる教会、あらゆる先生にあって、その、真の信心をそれこそ極めたい、という願いをもっておられる所に、合楽の話を聞き合楽の物を読まれて、もう兎に角、矢も盾もたまらずに合楽にやって来たという方ですからね。
まあだわづかな日ですけれども、もう何回と手紙やハガキが来たかわかりません。それを、又、人にも伝えておられる。その、昨日のハガキの中にはです、今申します様に、天地の中には千年万年かかっても、それは人間だけではない、全ての事をですね、丸うせずにはおかん、平和な世界を作らずにはおかん、という神様の働きとか願いだけしかないんだというその一言に感動して、そのハガキを聞きながら、もう素晴らしいね、本当に信心を求めるという事は、合楽ではそれを繰り返し頂いておるわけですけれども、確かにそうだとわかったらどういう事になるでしょうか。
全ての、例えば出来事や困った事やらでも、兎に角、私を丸うせずにはおかんという働きにそれが現れた、とわかる時に初めて神愛とわかるわけです。もう合楽では、もう大変な、その教えを頂いておるのが、いわば途中で落とされて、いつの間にか忘れられてしまっておる、という様な傾向がないでしょうか、ね。今ここに、まあ現金封筒で、この、まあ分厚い手紙が入っておるのでしょう。何とか教会ですかね、小原という先生から、まだ開けてもおりませんけれども来てるですけど、おそらく、あの、まあおかげの泉の愛読者と同時に合楽に、まあ傾倒しておられる先生ですが、これはどこでしたか、あの、ここの大和さん所の佐多恵さんが修行に本部から何日か行くんですよ。色んな教会に。そして、その佐多恵さんの信心を見て、合楽教会の教えにびっくりされて、まあ合楽ファンになっておられる先生なんです。まあだ開けては見ておりませんけれども、おそらくは今まで求めに求めておった、いうならば、自分の信心の確信にもなるもも、又、金光教の信心はこれだ、という様な所を感じられてであろうと、私は思うです、ね。
で、そういう例えば教えをね、頂かせて貰う。今度、久富繁雄さんがクジを頂いておられるのが、「この世はあの世の為にある」と言うのでしたよね。昨日、宮崎の佐田さんから電話がかかってきた、ね、それは繁おっちゃまと同じクジを引き当てた、と言うのです。もう、それだけで感動したというのです。そしてその内容がです、ね、もう信心はね、この世でおかげおかげじゃなくて、もうあの世の為に信心はあるのだから、もう今までの様に、おかげおかげに終始しておった信心から、もう脱皮しなければならん事を夫婦で気付かせて頂いて、もうその気付かせて頂いた事の喜びを、電話がかかってきましたよ。だからその事が、例えば本当にそうだと信じれれた時にです、もう、いうなら真の信心に入って行くわけです。おかげおかげの信心は真の信心じゃない、というわけじゃないですけれども、そこは真の信心の入口から一歩も進まん。
只、おかげおかげで終始したら、この世だけの信心になるじゃないか、あの世へは何も持って行く物がないじゃないか、という事になるでしょうね、真の信心を頂き、真の徳を受けて、それこそ、船にも車にも積めぬ程の御神徳を受けて、今日の御理解がそうです、ね。 昨日、あの何て言うか、高芝さんの姪子さんがおろうが、石井妙子さんが正月から、あのう、お夢を頂いて、まあ色々頂いております最後の所にね、あのう、熊谷さんが、そん、妙子さんに言うておられる事がね、合楽の親先生が死なれる前に、ここだけは体得しておかなければというお知らせを頂いたそうです。これはね、確かに教えは残るでしょう。けれども、やはり行じてわからん所が出て来たら尋ねる事が出来る。今なら、私が生きとる間なら。
昨日、今度十五年の記念祭に記念出版やると、まあ、色々こう、案が出ておるそうですが、若先生が昨日、ここで説かれるのを先生方が研修いたしましょう、そん時にまとめを、そのまとめの中に一番良かつを塗板に、こう掲示しとるでしょう、あれが記録に全部残っとるそうです。私知らなかった、そいが、もう大変な莫大なもんだそうです。だから、あれを今度の記念の出版にしたらどうだろうか、という相談を受けたんですけど、「そりゃあ、良かろうね」て、まあ言うた事でしたけれどね。成程、そういう素晴らしい教えというもの残っていって、それによっておかげ頂いて行くかも知れんけれども、今、直ちにもう、皆さんの血肉のなって行く事の為に、私は合楽の御理解は頂いて行かなければいけないと思うんです。
それにはね、やっぱり信心の驚きと喜びと言われる様に、その教えにね、もう、そいこそ、甘木の初代じゃないけれども、金光大神の教えを聞かれた時に、天の恩は説くけども、地の恩を説く宗教がない。その大地大恩を聞かれた時に、それこそ足もとから鳥が飛び立つ様な思いだった、と言っておられます。
合楽では、もうそれこそ、もう求めに求めておるならばです、例えば、ほんなら石田先生なんかやっぱそうじゃなかろうかと思うんです。あらゆる宗教の勉強もしてみた、ね。けれども、これと、なら、自分が一生を託せられる様なあの世までも、ほんなら、この信心を持って行けれるというものには合わなかった、ね。合楽に触れて初めてね、いうなら真の信心とはこれだというふうにわかられて、まあ、今日の、あの熱心な信心がでけておるわけです。
二、三日前は、あのう、あちらの御先祖の若奥様の、を、家族で、まだ正月で皆みえておられる御子達も皆ここにみえて、そして玉串を奉られて、そして御霊のお話を聞かれた。おそらく、私はこんなお話はした事がないのに、初めて参って来た若い方達が、わかられる筈ないと思ったけども、さっさと、その出るんですよ、お話が。したら昨日、あちらのお母さんが言っておられましたが、もう本当に今度子供達がお参りをして初めて、御霊の、例えて、いうなら合楽で説かれる霊感、これならばほんなもんだ、という様なものを感じられたという事ね。
合楽(大阪)の、あのう、宮田という先生が私の所にみえて、「大阪講演はどうでも」と言うて、まあわざわざここにみえた時に、先生が感じられたのは、ね、「合楽の親先生が言う、あのう、霊の世界とか霊感、これなら自分達の様な教学者でも合点が行く」と言われて古川威智雄先生を通してここへみえたんです。親戚関係になりますからね。だからもう本当に、求めに求めておったら、合楽の場合は、これはもう霊関係の事だけじゃないですけれどもね、もうそれこそ、足もとから鳥が飛び立つ様な驚きを持って頂ける様な心の状態というものが、お互い欠けとるじゃないだろうか。
それは何故かというと、いうならば、おかげおかげで目の前がくらんでおるのじゃないでしょうか、お互いの信心の眼というものが、ね、ですから、これは初めから真の信心は、という、なかなかでけませんけれどもね。段々信心がわからせてもろうて、それこそ天地の親神様の久しき願いであった願いが、今、金光大神の信心を通して、合楽によって、それを説き明かされ様としておる、ね。だから私が、あのう、兎に角この、只、簡単に和賀心で人間が幸福になれる、という事のです、これをもうひとつ、いうならば学問にしなきゃいけない、和賀心学というものが出来なきゃいけない。
そりゃ、例えば色んな学問がありますね。栄養学とかね、学という学問があるくらいですから。私、和賀心学があっていいと思う。もう小学校の一年生の時から、いわゆる和賀心についての学問が、義務教育の中に入って行かなければでけんと私は思うです、ね。だから、そういうふうに私が、ほんなら思っておるけれども、合楽の大坪が言う様に、そげん簡単なもんじゃなか、そげな、その簡単です、明瞭ですというけれども、そんな簡単なもんじゃない、とたかをくくっておる様な所はないだろうか、ね。
本気にならないから、私は今度、あのう久留米の矢次さんの告別式の朝頂いた。矢次さんがこの大地に、こう、あの、心眼に、夢の中でです、「桔梗の花を頂いた」そして言われる事が「親先生、桔梗のきょうという字はどげなふうに書きましたかねえ」と言われるですけども、だから、ハハア-桔梗というのは紫の花だから、安心を求めておられるんだなあと思うておったら、告別式の時に、あのう、若先生がお祝詞奏上しましたね、その中に人間は、土より出て土に帰るのであるから、その道中とても土の心になるという事を、あのう、それを聞かせて頂いた時に、ハハア、この事だったなと思ったんです。桔梗というのは帰郷につながるわけ、ね。
あの、郷里に帰るというでしょう、郷里の事をね、里に帰る事です。いうなら土に帰って行くのです。その帰って行くのに何十年間、合楽で御神縁は頂いておったけれども、合楽理念はひとつもしてなかった。身につけていなかったけれども、例えばその、人間が幸福になる為には、いよいよ極楽世界から、もういっちょ向こうの合楽世界に住まわせて頂きこそ、いうなら本当の助かりだといった様な事を漠然とわかっているわけですから、ね。ところがようと覚えとらんもん、桔梗の桔だけは覚えとるばってん梗の字がわからなかったけん、親先生、梗という字を、は、どげん書くですか、と言って尋ね求めしながら霊が、ほんなら合楽世界に辿ろうとしておるわけ、ね。
だからお互いがです、いうならば、もう霊の世界に行って改めて聞かんならんという事じゃなくて、ね、もう本当に合楽世界に直接進んで霊の世界に入っても行けれる様な信心をさして頂く為には、繁雄さんが頂いておられる、それじゃないけれども、この世はあの世の為にあるんだ。ほんなら、どういう生き方をしたらよいか、合楽理念に基づいての生き方を、身につけておく事だという事なんですよ。そして今言う、その、人間は土から出て土に帰って行くのだから、その道中とても土の心で、というふうに、もうこげん、とてもあのう素晴らしい教えはないと思うんですよ。しかも、その土の心になるという事が、みやしゅう、楽しゅう行けれる様に説いてあるのですから、それを実験し実証しようとする意欲がなかったら、合楽通いの値打ちはない、ね。
しかも、その石井妙子さんが頂いておられる様に、ね、熊谷さんが妙子さんに言うておられる事が「親先生が亡くなられたんじゃ、もう遅か」と、「今のうちに頂いときなさい」と言う事を、お互い一人一人がそれをね、ひとつ頂かせて頂こうという。私はおかげを頂く時に、決して信心の教えというものは持ち荷になるものでもなからなければ、邪魔になるものでもない。その気になれば日々の生活の中に、しかもね、我情を取れ、我欲を取れというと大変難しい様であるけれども、その教えに取り組ませて頂いて行くうちに、我情が取れ、我欲が取れ、人間は、いうなら我情我欲を言わなければ、この世では生きて行かれん様に思うておった観念が、いつの間にかイメ-ジアップでけて、我情我欲を言うたもんでは、本当の幸福にならん、徳にはならん、ね。
と言うて、情を言うてはならん、欲を言うてはならんと言うのじゃない。我情である。それを我情我欲のつっぱった生き方をしなければ、儲け出しもでけん、繁昌もでけんという様な観念があるわけです。だからこの観念をね、捨てなきゃいけない。過去宗教の、いわば難しい、いうならば戒律的なものが何とはなしに、こうイメ-ジの中にあるものだから、信心ちゃ難しい、そして何か御利益ば頂くとこがあるちゃもう何様でんよかち、言うごたるふうで、無責任な信心をして来たのが、今日までの人間の様相じゃなかろうかと思うんです、ね。
成程そのおかげに、まあ、頂かなきゃならんけども、おかげを頂くと同時にそれを通してです、ね、いうなら船にも車にも積めぬ程の神徳を頂けれる教えの頂き方、ね、名古屋のその方が言っておられる様に、本当に合楽理念を頂いて僅かだけれども、今まで沢山勉強して来た色んなお徳の高い先生を書いた御本があったけれども、その御本は全部ここへ送ってこられた。そして、もう合楽一本で行こうという、いうなら構えなんですよね。そして、ほんなら例えば今申します様に、もう天地の親神様の心に触れるばかりのものが、合楽の教えによってわかった。本当にそうだ、天地の親神様は千年万年かかっても、どうしてでも丸うせずにおかん、という働きだけしかないんだとわかった時に、一切がね、神愛、一切がおかげと。
そして、それがいよいよ豊かに大きいものにして行く為には、限りがない又精進がいるんですけれども、ね。兎に角、人間は和賀心を目指さなければ幸福になれない、という事をです、私はまあ、それこそ小学校の一年生から、今度、金光青年の読まれたでしょう、今月はち二百五十冊しか来てないそうですから、早よ買わんとなくなるです。それには、もう実に具体的に、合楽理念が四人の私、あの、息子達によってそれぞれの立場でね、あの、話しておりますのが出てます、ね。その中にです、いうならその気になって、皆さんが行じて行けば誰でもが行じられる、いうなら確かに簡単です、明瞭ですという所をですね、自分でも言れるくらいに、御教えというものが血肉になって行くならばです、ね、又は、本当な事がわかりにわかって、いよいよ全ての事が丸うせずにおかんという神様の働きである、と言う事になったら、おかげというものの影が薄うなって来るです。
もう兎に角、そういう事よりも自分の心が丸うなる事が先決だ、という事がわかって来るわけです。だから、丸うなる為の信心修行に励む様になって来るわけです、ね。そして、まあいうならば、確かにね、この世というのはあの世の為にあるんだ。この世で、この和賀心を頂いておかなければ、いうならば尋ね求めしながらの合楽世界ではね。これは矢次さんの場合ですけれどもです、けれども合楽に御縁頂いておったというだけでね、親先生、ここはどげん行くですかと尋ねられるという事は有難いと思いますけれども、ね。私共がこうやって、日々朝参りでもさしてもろうて、その修行をさして頂いておる時にです、いうならば合楽の信心がいよいよ血に肉になる様な、いうなら今日の御理解、構えをね、作らなきゃいけない。途中で落としてしもたんでは勿体ない。それは船にも車にも積めぬ程の神徳の頂けれるお話なのだから、しかも過去数千年にわたってね、あらゆる宗教者、宗教家が説いた事のない、まあ、教えてもらう事が出来なかった教えがです、私は皆さんが毎朝唱えておられる祈念詞の中にあります様にね、神様の、いうならば、久しき願いであった、その久しき願いがここにね、実現しようとしておる。
ところが、それがあまりにも明瞭です、簡単ですから、そげなこって人間本当に幸福になれるだろうか、といった様な、そういう、勿論、合楽理念を頂いてない人なんかは、もう見向きもしないです。そんな簡単な事で人間が幸福になれるという事は信じれないわけなんですね。ですから、せめて合楽に御縁を頂いておる方達だけは、それが信じれれる信心、実験、実証、まず自分の心が丸うなる事を先決にして行く。あの世の為にこの世はある。この世の修行がある、という様な、まあ遠大な所に信心の、その、進めて行くポイントがね、置かれる様になったら、もう、信心がもう、それこそもう、自分ながらびっくりする様に心の成長を頂く事ができると思います、ね。教えは残ります、ね。けれども、勿論、それは自分の血に肉にして行く事をひとつ先決しなきゃいけない、ね。勉強すると思ゃあ合楽で残された教えが残ってるからでける。
けども、あの世に私共が、いうなら行ってから、ああ、あそこはどげんじゃったよう、と言うて、又尋げこんなような事ではいけませんよ、ね。勿論、そこにはね、ハハア、合楽世界とはこういう世界だなあ、と、この世で体験しとかにゃいかんです、ね。私は合楽世界の、まあ、いうならば小さい手本が合楽だと思うんです、ね。そして皆さんが合楽で行われておる、又、起こっておるこの合楽教会の現状というものをご覧になれば大体わかるのです。こういう世界がそのまんま、あの世にも続いて行くという、行ける様な、まあおかげを頂いてもらいたい。それにはひとつ、船にも車にも積めぬほどしの神徳のあるお話が合楽では、こうして続けられておるのですから、ね。それを本気で頂こうという構えをね、作らなければいけない。それには、まず心の内を改める事が第一なり、とここにありますが、私は心の内を改めると言う事は、今まで観念のイメ-ジをね、アップする事だと思いますですね。どうぞ。